管理栄養士国家試験合格に向けてチャレンジする人を応援するブログ

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今ある結果は、日々積み重ねてきた結果

皆さん、こんにちは。

 

最近、謎のテーマで続いているような記事になっていますが、大事な事だと考えているので段階を経て話を進めているつもりでいます。

 

前回は、応援してくれる人がどれくらいいますか?という事で終わりました。

 

多い人もいれば、少ない人もいるかもしれません。

いないという人もいるかもしれません。

いないという人は、応援されている事に気づいていないのかもしれません。

天涯孤独という言葉はありますが、そういった人は、そういった選択をし続けた結果である場合が多いのですが、不慮の事故のような事で突然なってしまうケースもあります。

 

多くの人は、だれかから応援されながら生活をしています。

頑張れと声をかけてくれる友人・知人・初対面の人・旅先で出会った人もいますし、両親が日常の生活という環境を用意してくれるというのも、当然応援に入ります。

 

それでは皆さんは、誰かを応援していますか?

 

自身のご子息は当然応援していると思います。親族もそうです。
職場でもあるでしょうし、買い物先でもあると思います。
好きなスポーツチームを応援しているのも当然含まれます。
ネット上でのチャットで行っている場合もあると思います。

 


応援する事と、応援される事。

 

生きていくための活力になりやすいのは、間違いなく「応援する事」です。

人は誰かのために生きていく事で、その姿が輝いてる場合が多いと考えています。

凄く身近な例では、母親がご子息のために毎日弁当を作ったり、世話にも家事にも仕事にも取り組むパワーが生まれるのは、ご子息がいるからだと思います。
好きな人に、何かをしてあげたいという事も、大きなパワーになると思います。
好きな男性や女性に貢いだり、握手券付のCDを購入しまくるのも、根本的な部分では同じです。

でも、同時に応援されている事にも気付いてなければ、行動が極端になりやすくもなります。

借金したり、自分の生活を切り捨ててでもホスト・ホステスに貢いだりというのはよく聞く話です。

そこから逆恨みで事件に進展したりという事もあります。
握手会会場でアイドルを切りつけたりしたとか。

 

応援されている人は、応援している人がどんな気持ちでいるかに気づいて考えないと、思わぬ行動に出られたりしてしまい、最悪命を脅かされる存在になってしまう場合もあります。
親は応援しているつもりでも、子供にとっては強烈なプレッシャーになっていて、今後の人格形成に大きな影響を与える場合もあります。

 

人は、こういった部分に影響を受けながら、自分の中でなんとか辻褄を合わせながら、生きているのではないかと思いますが、どうでしょうか?
この考え方が多数派か少数派かは分かりませんが、親からの影響は大きなものだというのは、多くの人にあてはまるのではないかと思います。
一番濃密な時間を過ごすのは、家庭ですから。

そこで用意された環境により、ベース部分が形成され、社会と調整しながら生活をしていく事になっていきます。

家庭環境と社会にギャップが少ないと苦労はしないのですが、それが大きいと、かなりのハンディキャップがある事になります。

人と接する事で、そのギャップが大きいと、なかなか受け入れられない部分も大きくなり、自分の世界に閉じこもりやすくなってしまいます。

その繰り返しの結果、または、人と接する事を可能な限り減らそうとした結果が、コミュ障と呼ばれるものではないかと感じます。

私自身も、幼少期は人見知りで、自分から挨拶が出来ず、通りかかった近所の人にも、何と言葉を交わしていいか分かりませんでした。

「これからどこにいくの?」という近所の人からの声掛けにも、何も言えず立ち去ってしまった事もあります。

今だったら、気軽に「ちょっとそこまで」とか、「早く帰らないといけないんです。さんまちゃん見なきゃいけないから」とか話が出来るのですが、当時は全然ダメでした。

でも、いろんな経験を繰り返す事で、いろいろと話が出来るような状態へと持ってこれたと思います。

ある意味、特訓の結果でしょうか?

 

現代では、小さい頃から携帯ゲーム機を与えられ、ガンガンやっています。
親としては、与えて置けば手間がかからないでしょうから、都合がいいと思います。

でも、ゲームを与えられた子供は、ゲームで快適な時間を過ごす事が出来るので、他人を通じて楽しい時間を共有するという時間が少なくなってしまっています。
ゲームでなくても、多くの時間を友達とでなく勉強に費やした結果、遊ぶことを知らないまま大学へ進み、そこで羽目を外して事件を起こしてしまうような事も有ったりします。
公務員がキャバクラで貢ぐために予算を横領したというのも、それに含まれると思います。

それはともかく、そういった「他人と過ごす時間」をあまり経験してこなかった人が、「自分はコミュ障だ」と言っているのではないかという仮説を立てています。

 

自分の部屋に閉じこもり、ネットの中だけの生活をする。

外に出ても、外部の情報を遮断し、移動中で電車の中でも、カフェにいてもスマホだけを見続ける。

誰とも会話をしないで一日を過ごす。

「何かをしゃべろうとした時に、あまりにも普段から言葉を発していなかったため、言葉が出なかった」

と話していた人もいます。

 

ネットだけで生活が完結し、五感を刺激しない生活を続けている現状は、とてももったいないと思います。

そんな五感を刺激を受けていない人の話を聞いても、人の心を動かすのは難しいと感じます。

耳を傾けてくれるのは、同じような環境で生活しているひとの方が多くなると思います。

ますますコミュ障の度合いが大きくなるのではないかと、危惧しています。

 


今回は、ここまで。

 

次で最後になるかな?